人生の目的地はどこに?  (天台ブックレットNO67から抜粋)

 

『人生の目的地ってどこにあるんだろう?』って。ふと思うことがある。マラソンみたいにゴールテープが張られているわけでもないし、どこまでいったら『人生これでオッケー!』って思えるのだろうか。 よくよく考えてみると人生に目的地はないんじゃないかな。 この先ゴールがあると思って目指していたら、きっとそのまま一生が終わってしまいそうだ。

何かを目指して生きることも大切だが、それよりも、人生に起こる一つ一つの出来事、それがほんとうの些細なものであっても、生きているまるごとに意義があるんだと思う。

たとえばこんはふうに考えたらどうだろう。 朝起きて窓の外の景色を見る。『ああ、この景色をみるために生まれてきたんだ』って。 道すがらすれ違う人とあいさつを交わす。『ああ、この人とここで出会うために生まれてきたんだ』って。 日々の一瞬一瞬のすべてが自分の生まれてきた理由だと。そんなふうに感じられたら、人生の見方が大きく変わるはずだ。

もちろん悪いことだってそうだ。 嫌いな人に出会っても、『このバカ野郎と会うために生まれてきたんだ』、路上で足を止めて、『この犬の糞を踏むために生まれてきたんだ』って。

感情的に抵抗があるが、それが良いことであれ悪いことであれ、どちらも人生の不可欠な一部じゃないかな。

例えばジグゾーパズルには、いろいろな形のピースがあって、その一個でもなくなったらパズルは完成しない。 人生も同じで、不本意だと思っても、それは自分の人生にとってかけがいのない一ピースであり、それがかえって次のピースをはめる一手になるかもしれない。

伊藤園のお茶パックの側面に一般公募の川柳が載っているが、中学生部門の入賞作品に『振り向けば絶景なのだと信じたい』といった川柳をみつけた。まさにその通り。 どこでどのように生きても、それが人と違っても、遅くても早くても、みんなそれぞれが最高の絶景を背負って生きているのではないだろうか。

この世に生まれて今日まで自分の人生に必要なことしか起こらなかったのだから、きっとこれからも必要なことしか起こらない。 だからこそ、この人生、安心して迷子になろうじゃないか。 これが仏教の迷子のすすめ。