無縁社会の誕生  ( 天台ブックレット NO67 から抜粋)

未来志向の社会ではスピードが肝心だ。 歩くよりバス、バスより電車、電車なら新幹線。 いやいやそれなら飛行機のほうが、という具合に、ひとたび目的をみつけると、いかに速く、そして効率よく進むかが第一で、目的地までの道のりは単なる手段でしかない。 できればその手段も無ければ無いほうがいい。 あるだけ無駄だと考える。

道中、前にしか目線がないから、予想外のハプニングがあってはいけない。 ちょっと寄り道したり、道に迷っている暇はない。

自分の都合が最優先で、不本意なことや面倒なことは避けて、お互い迷惑をかけるのはやめましょうと、そうやってできたのが無縁社会ではないだろうか。

仏教ではこの世に中は縁起の世界だという。 私たちも日常的に縁という言葉を使い、大切なものだと考えている。 いい縁との巡り合いを願わない人はいないはずだ。

『何かいいことないか?』って心の中で思っている

 でも、当たり前のことだが、都合よくいい縁に出会うわけではない。 縁というのは、さまざまな関係性のなかで起こるべくして起こる必然的なものといえ、いつ、どこで、どのような縁が訪れるかは予想ができない(後からみれば、その因果関係は説明がつくのだが)。

 それは偶然を装って横からやってくるので、前だけを見て走っていたら、折角のいい縁も、気が付かないで素通りしてしまうか、邪魔なものだと思って無視してしまう。

もしかしたらあなたの真横ですごい美人(イケメン)がほほ笑んでいるかもしれないのに・・。 あ、急に俗っぽくなってしまった!